● 素直  ●

 講義が終わり弘樹が研究室に戻ると、机の上に置かれた携帯がピカピカ光っているのが目に入った。
 斜め横に位置された席には教授が座っていて、タバコをふかしながら新聞を読んでいる。

(やばっ……)

「かーみーじょう! さっき携帯鳴ってたぞー。愛しの彼からのメールじゃないのかー?」

 案の定、ドアが開いた音に反応し、待ってましたとばかりキャスター付きの椅子でガーっと移動して弘樹の元に寄ってきた。
 子供みたいに椅子で移動するなと何度言っても改善されない子供のような行動にも呆れるが、何よりも今は人をからかうつもりの発言が癪に障る。

「……人のプライベートに立ち入らんでください……!!」
「お〜怖い怖い」

 弘樹が眉間に皺を寄せて、不機嫌ゲージマックスで詰ると、触らぬ神に祟りなしとばかりに、くるりと椅子を回転させ自分のデスクに戻っていった。

 ったく、ついてない。本当に今日はついてない……
 あ、いや、こんな所に携帯を置き去りにしたのは自分だが、そもそも大元の原因は教授にある。


 ◇


 今朝、出勤して早々宮城教授に「俺を癒せー」と抱きつかれ、毎度の如く全力で引き剥がしにかかると、今度は「俺の友人の話だが……」と相談を持ちかけられた。
 朝っぱらからストレスの捌け口にされ弘樹はうんざりだった。
 そのうえ、相談内容は隣に住んでいるのになかなか会いに来ないと年下の恋人が憤慨し、手を焼いているとかなんとか。
 そして一方的に提言された解決策は、ジャンケンだかのゲームをして負けたほうが、会いに行くというものだった。
「忍の思考回路が理解できん!」と頭を抱える教授を冷めた目で見ながら、1限から入っている講義の準備をする。

 ったく、立場や体裁を気にして素直に会いに行ってあげられない教授に対して、彼が一生懸命考えた末の譲歩なんだってことに気付いてないんだろうか。
 本当は、会いたいから会いに来たって言って欲しいだけなんだろうに。


「上條……冷たい……」
「あーはいはい。惚気るのもいい加減にしてくださいね」
「あ……いや、これは俺の友人の話で……!」
「さっき忍って言ったの、気付いてなかったんですか?」
「……あ」

 やってしまった……と深くため息をついて項垂れる教授の姿を見ていると、とても清清しい気分になる。普段からかわれてばかりの俺の気持ちを少しは味わえ。
 全く、聞けば聞くほど惚気としか思えない内容で、一段と腹が立つ。

(つか、俺だってここ最近忙しいあいつと、まともに会話してねーっつーのに……)

 秋も深まり急激に寒くなるこの時期は、病院も急患で立て込み忙しくなる。
 交代制の勤務であっても、人が足りなければ否応なしに呼び出されるし、病院に寝泊りをした方が、睡眠時間が少しでも多く取れるし緊急時にも直ぐに対応できる。
 帰宅できても昼間、そしてまた弘樹が帰宅する前に出勤していく。会えても僅かな時間。
 着替えを取りに来ただけで、病院にトンボ帰りなんてこともある。
 ここ2週間はそんな繰り返しだった。

 そもそも、生活リズムが違うという物理的な理由ですれ違ってばかりの日常を過ごす自分たちに比べたら、どんなに贅沢な悩みなんだろうと思う。
 しかし、素直に会いたいとか寂しいとか簡単に言えないのは自分も一緒なわけで。
 幼い頃から積み上げてきたエベレスト級の無駄に高いプライドと、相手が年下ということで素直に甘えられず、結局は自分も相手も傷つけて。

 けれでも、一緒に過ごす時間を積み重ねて、少しずつ距離を縮めてきた。
 素直になれない自分の想いをいつもあいつが汲み取ってくれて、甘やかされて。
 あまり会えない分、一緒にいるときは、好きだの愛してるだのかわいいだの四六時中囁かれて身も心も溶かされて。
 羞恥に耐えられず心とは裏腹な態度を取ってしまうけれども、それすらもかわいいとぬかされて。
 少し高めの甘い声が耳朶を擽り全身が震える。
 優しく名前を呼ばれると、ふわふわと心地よくなり、プライドは少しずつ崩れていく。


 会えない時間が長く続くほど、想われることが、求められることが、伝えてもらうことがどれだけ大切で嬉しいかを実感する。


 隣のドアを開けば、会いたいと思えば会える状況にいて、体裁を気にして我慢してるなんて、相手が不憫だ。
 好きで堪らないのに、求めてもらえないことがどれだけ不安だろうか。
 まぁ、強引で直球な恋人の取る行動に心労がたたるという部分については、分からなくもないしむしろ同情する。
 それでも、やはり自分が満たされていない状態で惚気を聞かされるのは、苦痛以外の何ものでもない。

「ま、教授も人のこと言う前に、素直になったらいかがですか? ゲームの勝敗に拘らず会う口実になるんだし恋人も喜ぶ。それでいいじゃないですか」
「上條……お前かわいくないぞ」
「かわいくなくて結構です……って、あー! もうこんな時間っ! ったく、教授のせいですからね!」

 ふと、机の上に置かれた卓上時計の時刻が目に入り、弘樹はギョッとする。
 講義開始時刻まで10分をきっているのに、講義の準備ができていない。
 慌てて教科書と今日使用する資料をまとめ、カバンからメガネを取り出しバタバタと研究室を後にした。

 このとき、ジャケットのポケットに入れていた携帯を取り出して、机の上に置いてしまったのだろう。
 いつもはカバンか、机の引き出しに仕舞っていたのに。


 そして、講義を終え戻ってきた弘樹を出迎えたのは、講義中に受信したであろう携帯のメール着信を知らせる、ありがた迷惑な教授の発言というわけだ。



 ◇


 本当に今日は朝からついていない。
 はぁ、と悄然のため息を吐き、自分の机に向かった教授を確認してから、携帯を拾い上げて、メールの受信ボックス画面を開くと、送信者は教授の予想通り、ロクに顔も見ていない恋人からだった。

 朝から人の惚気を聞かされ、寂しいと思う気持ちと、会いたいと思う気持ちが溢れてしまった為か、浮き立つ気持ちを抑えられず、弘樹は素早くメールを開いた。

『今日、これから帰ります。明日の夜までお休みを頂けたので、久しぶりにヒロさんとゆっくり過ごしたいです。それと、夕飯を用意しておきますので何時ごろ帰って来られるか連絡をいただけると嬉しいです。あと、何か食べたいものはありますか?』

「……っ!!」
(うわっ……まじで……? なんてタイミング……)

 思いもよらぬ吉報に驚いて心が跳ね、うっかり声を出しそうになってしまったが、ごくりと息を呑んで、じわじわと込み上げてくる喜びを噛み締める。

「上條、顔にやけてるぞ」
「えっ! はぃっ!?」

 ばくばくと高鳴る自分の心臓の音が聞こえるくらい、周りが見えていなかった弘樹は、教授に声を掛けられた瞬間、素っ頓狂な声が出てしまった。

「お前は、ほんっとに顔に出るよな。あー、幸せで羨ましーー。おい上條! 今日飲みにつきあえ! 俺の話を聞け! 明日は土曜だ! 飲み明かすぞ!」
「いい加減にしてください! もう教授の話は十分聞きましたし、ちゃんと助言もしたじゃないですか! はっきり言ってうんざりです。俺は今日忙しいので、定時で帰らせてもらいますからっ!」
「だ、駄目だ駄目だ!! 教授命令だー! 従わないと、今日一日お前に付きまとうからなっ!」
「っ教……授……! セクハラとパワハラ、両方で訴えましょうか……? それとも、教授の恋人にそんなとこ見られてもいいんですかね……?」
「……さぁーて、論文論文っと。あー資料どこ置いたっけなー」

 学部長の息子という立場である年下の恋人が、研究室に前触れもなく教授に会いに来ること数回。
 タイミングが悪いというか、教授の日頃の行いが良くないのか、テロリストこと高槻忍はかなりの高確率で、教授がふざけて弘樹に抱きついている場面を目撃している。
 その度、弘樹はぎろりと射殺されそうな程鋭い視線で睨まれて、多大なる迷惑を被っているが、実際文句をぶつけられるのは教授なので、弘樹に実害はない。
 今みたいに、恋人に目撃されたら、という危惧が教授を引き下がらせたのだとすると、その後のアフターケアがとても大変なのだろうと思う。

 自業自得だろうけど、でも次からはこの手を使えば、今までよりも教授の相手が楽になりそうだ。弘樹はそう思った。




 ◇


 講義の後、教授に見つからないようにこっそりと野分にメールの返信をして、早く帰ることを伝えた。
 ついでに、夕飯のリクエストもしてみた。
 同居を始めてから、家事を分担して二人分の食事を作るようになり、弘樹は相変わらずレトルトに頼りっきりだが、野分は出来る限り手料理を用意してくれている。
 そして、二人で一緒に食事を摂れるとき、野分は必ず「何が食べたいですか?」と聞いてくる。
 最初の頃はそれが嬉しくて、よくリクエストをしていたのだが、ついついカレーやハンバーグ、オムライス等を言ってしまい、野分に「ヒロさんは子供みたいでかわいいです」とお日様のように微笑まれて、弘樹はその度に子供っぽい自分に羞恥を覚えた。
 それもあって、最近は「何が食べたいですか?」と聞かれても「何でもいい」と言って任せてばかりいた。
 実際、野分の作るものはレパートリーも多く、何でも美味しい。
 だったら、任せていた方がバランスの摂れた食事になる。
 けれども、今日はどうしても浮き足立ってしまい、柄にもなく甘えてみたくなったのだった。


 それというのも実は、今朝あんなに最悪で鬱陶しいと思っていた教授の惚気話が関係している。
 会える状況にありながら、世間体や立場を気にして素直に行動できない教授を見ていて、無性に腹が立ったのだが、そのおかげで、自分達が二人で過ごせる時間の大切さを再確認させられたからで。
 久しぶりに週末を二人で過ごせるのは、何ヶ月ぶりだろうか。明日は、どこかへ出掛けようか、などと考えてしまうのも無理はない。
 とりあえず、この嬉しい気持ちを少しでも伝えたくて、最近はずっと「何でもいい」と答えていたにもかかわらず、聞き続けてくれる夕飯のリクエストを久々にしてみた。


『ロールキャベツが食べたい。今日は早く帰る』


 教授の恋人が毎日教授のために作る、キャベツ炒めオンリーの愛妻弁当を思い出し、また今日もしっかりと持ってきている弁当箱が目に入って、ふとロールキャベツが食べたくなったのだった。